昭和44年07月01日 月次祭
昨日はあのように大祓式が執り行われました。悪病予防そして併せて交通安全の大祈願のお祭りでございました。中に新しい方初めての方が幾人もお参りになっておられましたが、福岡の杉山さんのお導きでお参りして来た方がございました。お祭りが済んでからそのう着替えに下がっておりましたら、ちょうど古屋さんとお仕事の関係で関係ある方で、杉山さんと三人で私の部屋へ見えられました。色々とお話しをま聞かせて頂いた訳でございますけれども。
その方が言われるのに、世の中には本当にびっくりするような人がおりますもんですよと。本当にこんな人が世の中におられるんだろうかと思うくらいに、素晴らしい人がある。現に私の仕えておる社長というのは、その方は私と友達くらいでしたから、五十五とか言うておられました。がその方の社長という方はまぁだ三十六歳。こんな偉い人は見たことが無いと言うて話しておられた。その奥さんのお父さんというのは、それこそどれだけ金があるか分からんほどしの、熊本の財閥だそうですが。
その娘さんをもらわれて、もちろんそのお父さんの財産なんかは、もう無論目にもかけて無いという。またお父さんが言われた。あんな娘婿あんな男はかつて見たことが無い。と言われるくらい偉い人らしい。それがそのう縁あってその方の会社に勤めるようになって。まぁ福岡の支店の方かなんかを受け賜っておられるような方でございました。どのような風に偉いかと言うと、もうそれこそもうその敬服するということですね。もう毎日こんなに厚いその伝票をずぅっと目を通されて。
それこそ百円の金でもですね余分な金が、何やら分からん金が出ておったら、すうっと呼びつけておいてから、どんなに年輩の社員であろうが、それをそのう正して行くといったような、そのまぁさばけた行き方らしいですね。そしてもうならそうして行かれるそのう。仕事の要領というものが実にあれじゃもう、とにかく事業が発展せんはずが無い。または儲け出さんずは無い。あんな偉い人をもう兎角説明がしような程偉い。ほれで古屋さんが言うておられましたが。
一遍どげんな人間かいっちょここへ連れて来なさい。私がいっちょ首実験ばしてやるけんちゅうてですね。一回親先生に会わせにゃいかんですよとち言うて。まぁ今日は実は私もここに御神縁頂いたのは、この杉山君がもうしゃっちもっちちゅて、そりゃもう合楽の金光様はたいしたこっちゃ。もうあっちのお祭りでは絶対雨が降らん。騙されたと思うて、一遍来て見なさいと言わてだったらしいんですよ。で朝そのう迎えに行ったんです。ほれ見てみなさい。
今日は合楽の大祓式じゃけん、天気がこげん良うなったと言うたら。ほうりゃ見て見なさい今日は合楽の大祓式じゃけんで、もう天気がこえん良うなっとろうがちいうたっち。ほうほんなことこれが言いよる事がほんな事たい。と思うてちょっと騙された気になったらしいです。そして迎えに来て自動車に乗って行きよよったなら、雨がジャージャー降り出したげな。そしてここへ来てからお祭り頂きよったげなら、いよいよそのうこりゃたいした事、杉山におりゃとうとう一杯食わされたと実は先生思いました。
と私に言われたんです。ところがねお祭りが段々進ませて頂いて、私のお話しを頂いていきよったらですね、何かしらんけど身が震えるような有り難いものを感じたちゅうて。信心の有り難いということは、例えば私はこのお湿りをというて、この降りしきるお湿りの中に、この御大祭がお祭りが仕えられた。大祓式が仕えられた。おかげでこのお湿りのおかげでと言う私は例を幾つも申しましたんです。その時にそのうはぁ信心ちゃこれだ、本当の信心ちゃこれだというふう思うたち言われる。
なかなか良い所を感じられたんだと私は思うんですよ。これから私はどうでもおかげを頂かなければならない、色々な問題を抱えております。と言うてまぁ聞いて下さいと言わんばかりに、そこに四、五人おりました、そのときにですね四、五人おられましたが、まぁおられるなかのその四、五人方達にです、まぁその話されます事はです。去年の十二月にゃね、あんまり借金に覆いかぶされて、もう借金の断りがもうどうにも同じ嘘ばっかり言うもんですから、もうどうにも出来ないなってもう頭がどうかなってですね。
住吉神社夜中に住吉神社の境内に、もうその時にゃ勿論自殺する積りですから、遺書をこのポケトの中に入れて、そしていよいよその死を覚悟したというところからですね、話された。まぁどうにも出来ない所をもう不思議にそのうおかげを頂いた。いよいよそのう決行に移ろうと思うたらですね、お母さんが帰って来い帰って来いと、心の中に囁かれるのを聞いた。息子さん子供さんがね、お父ちゃんと言う声を聞いた。その時にはもう弾かれるようにですね、ハットしてまぁ時にゃもう自分は家に帰って来ておったと。
こういうとられます。それからですその翌日から不思議な事が起こって来た。第一もう長く会わなかった弟がやって来る。兄弟がやって来る。そして自分の現在の苦境を話したら、これはお兄ちゃんよこれはお兄ちゃんよと言うてから、そのうお金を僅かばかりではあったけれども送ってくれて、どうやらこうやらそのお金でですね、借金払いの少しづつでもさせてもろうて、まぁお餅をつくお金だけを残して、まぁどうやらそのうお正月を越して、今日そのう偉いと言う社長さんの所に雇われるまでの話をなさいました。
ところがですね、その社長さんの話を聞いておりますとですね、もう実に偉いもうそれこそ、例えば会社で社長さんが何かしておられる。皆んなが一生懸命に手足のように働く、働く。ところがそのう社長が一歩外に出られると、はぁもう本当にもう気が休まるいと言うて、もう皆んながそのうしゃんとせんそうです。だから仕事をですね。そのことを聞かせて頂きながら、はぁ信心の偉いはここ辺から違う。そういう素晴らしい人が、信心をさせて頂いたら、それこそ大変なおかげを頂かれることじゃろう。
まぁ私のお話しをさして頂かと思うたばってん、まぁ黙って聞かせて頂きましたけれどもです。例えばこうやってならお祭りのならお祭りを仕えさせて頂いて、私は部屋の方へ引っ込んでおりゃ、それこそ皆が怠ける段んじゃない。その事のを神に一生懸命にいうなら、私の手足になって動いておって下さる。片一方の偉い人は偉いから、もうその一言一句ですその日人の言うことにゃ頭が上がらん程に素晴らしいことですから、皆んなが言う事を聞くけれどもおられないと油を売る。
信心というものはいわば金で使わずね、物で使わず心で使え。その心で使うと言うところにです、大変な違いがあるということですね。私は思わせてもらいました。先程で前講で久富さんがお話ししておられました。何か素晴らしいお話しをなさっておられるようですけれども、悲しい事に私がここに座っとると耳が遠いもんですから聞こえんのです。ところに所に聞こえて来るのは、サァーと言う言葉。信心にはサァーというそれが大事だと言うことをいうておられます。
サァーサァーと言うそれを私は聞かせて頂いておりましたらですね、もう何時の事に聞いたか覚えませんけれども、聞いた話を思い出させてもらった。それは天理教の教祖様のお国替えなさる時の事でございました。天理教の教祖様がお国替えなる時にですね、もういよいよもう難しいという時にですね。サァー神様になるぞ扉を開けよとおっしゃったそうです。死ぬる時にもですね、サァーと言うその勢いでそのう、いわゆるお社の中に飛び込んでおいでられたというお話しを聞いたことがある。
確かにもう本当に死ぬるということは大変な事でありましょうけれどもですね。その時でもやはりサァーと元気でですね、何時死んだか分からんごだるふうで。その死んだんじゃなくて本当にサァーという私は勢いで入っていけれる。あの世に飛び込んでいけれるようなですね、私はおかげを頂くためにはやはり、サァーというような元気な心がいるんだということをね、天理教ではその事をまぁ言われると話を聞きました。私はだから久富さんが言うっとられるのは、そういう意味でのサァーの事であろうとこう思う。
そりゃお芝居なんかでもいよいよこうクライマックスの時ですかね、二人がサァーサァーサァーサァーと言うたげにね、それでもう盛り上がりが出来てくる。片一方がサァー片一方がサァーと言うたらもう盛り上げが無かです。例えば今ここで夏の信行期間がありますが、そのうもう神様がいきり立ってござる時ですよ皆さん。神様がサァーと言うてござる時ですよ。ですからお互いの心がサァーという。そのサァーとサァーがここに出会うて初めてですね、本当の事がなされるんではなかろうかとこう思います。
お互いところがなかなかサァーが出らんのです。今日私は或る方の、午前中にお届けをさせて頂いとりましたら、たまたま高橋さんがおられましたから、本当に高橋さんが見える前に高橋さんの話をしよった。福岡の方達ちゃあぁたもう月次祭の時にゃ日に三遍参って来なさるですよ。朝の御祈念に参って、昼の御祈念にお参りになって、そしてまた月次祭となりゃ、それにまたこうして参ってお見えになるんですよ。そりゃちらもうそれこそこちらがサァーと言うたっちゃ、サァーと親子連れで参ってございましたが。
ほうとてもあげなことは私だん元気をだすことで、お話を聞いておられるんですねぇ。お話ししとってがっかりするごとある。はぁ珍しい方達がありますなぁ。私どんがおかげ頂けんはずじゃん。本当に私どんがおかげ頂けんはずじゃん、本当に私どんがおかげ頂ききらん筈ですね。というふうにこう出てまらやぁまだよかばってんね。そりゃはまるきり話しょるもんもそん参って来てるもんも馬鹿んごたる。ほりゃっち言うちからもう何か特別のそのう馬鹿んごたるそのうみた。
成る程その方達ゃ今そのう金に不自由なさっておられるわけでもなしに、まぁ結構なおかげ頂いておられるのですからね。そのヤァーヤァー言うようなもんでも無いからいいようでしょうけれどもです。そこでですね私は思うんです。お互いが本当に真実一路、しかもそれが真剣にねそのう生きていけれる。それを例えば先程その偉いというところの社長さんという方は、未だ三十六歳だけれども、なかなか金儲けが名人。もうそれこそもう口の先ひとつでですね、いうなら金の力ひとつでですね。
それこそもうそのう自分の手のように足のように使いこなされる。もうこの人の言う事にゃ頭が上がらん。素晴らしい、けれどもならその人がおらん時には、油を売りょるということはです、そういう事でなら儲け出したっちゃほんなもんじゃなかということですね。本当に心でね心でそれこそ使わせて頂けるだけの、心を頂かせて頂くためのに、私はしっかり信心の力とお徳を受けなければいけんじゃないだろうかとこう思のうです。それになら例えば引き換えましてですたい。
教祖の神様がお国替えの時はどうじゃったかと言うことです。今何ん時かとおっしゃる。今何ん時でございます。ちょうどあのう後ろのちょうじょうなんですね、に朝日があがりかけましたと。ちょうどそのう朝の日の出を待っておられたように、あぁ心やすしとこう一言おっしゃって亡くなられた。さぁち言うて力んでござらなかったですね。サァーちゅうてからもうそのう一生懸命にならなければ、あの世に行かれんちゅうなもんじゃなかった。そりゃもう素晴らしいけれども、はぁ心やすしと。
もうとにかく神様の世界。いわば御霊の世界。そのことを充分お分かりになっておられて、これからはね生身を持っておれば、何処へでも行けんけれども、金光大神がお国替えしたら来てくれという所にゃ、何処へでも行ってやるぞという自信を持って、お国替えなられた。それはあぁこころやすしと言う御一言を残して、お国替えになられたと言われております。ですから私共が目指すところはやはりそこなんですけれども、その過程としてやはりそのうサァーがいるんじゃなかろうかとこう思うんです。
それには私共がね真剣にならなければ駄目です。なかなか真剣が出ません。今日も私は朝のお届けさせてもらいよりましたら、今毎日あのうあれがあってるそうですね。お参りしようと思ようりますばってんがなかなか出来ませんと。だからお参りすると思よりますということも嘘でもないらしいです。そしたらその方が刀をこうやって抜かれよるところを頂いたんです。そしたらこうした時にはいっちょん分からん立派な刀です。こう抜かれたら。半分から折れてる刀です。いわゆる真剣が折れておるということです。
真剣が欠けておるんだなぁと。それでなら真剣になりなさいと言うてもです、なかなかなれないというてなれるもんじゃない。本気でやはりその人自身がね、真剣にならして頂くことを神様にお願いをし、お取次ぎを例えば頂いて真剣にならせて下さい。真剣ないわゆる真実一路の生き方をさせて下さいというような、願いがなされなければならないとこう思うのです。私は今日午前中にここの富永さんのお電話を受けました、昨日お参りに見えざったから。
ははぁ今日お参り出けんというお電話ばいなぁと思うて電話を頂いたんです。そしたら奥さんの声で、実は昨日お参りさせて頂いとりましたら、今日ご無礼するつもりでしたんですたい、ところがそのうご主人の先生の方がですね、そのう言われる事にね、本当におかしいじゃないかとね。昨日は一年中の事をしかも大変な事をお願いにお前は参ったんだろうて、一年中の事をお願いに今日は参ったんぞと。それにおまえは昨日の事と今日の事を一緒にするというもんがあるもんかとって注意を受けてから。
それこそ信心はたいしておありにならないのだけれども、信心のない主人に教えられた思いでです、今日ぜひお引き寄せ頂きたいから、お供えを先にしておいてくれ、という電話でございました。私はね信心が無かってもですよね、信心はさほどにそのう稽古は出来ていなくてもです、やはりそういう人がありますですね。世の中には確かに偉い人がある。いわゆるものの道理が分かっている人がある。どうじんの人なんかは物の道理を信心はせんでも、話は聞かんでも分かっておる。
熊本の三十六歳になる社長さんという方はです、信心はせんでもです、それこそ一分一里すき間の無いような真剣な行き方。これが本当と思ったらそれを我武者羅にやって、やり抜かせて頂く。そのう一つの真実の芯を持ってそれに当たっておられる。だからやることなすことが当たっておられる。ところがです信心をこれに頂いて、そこんところどんが分からせて頂いた時に初めて鬼に金棒です。富永先生が本当に、なら御自身がですね、本当の信心を頂かれたら、もういよいよ鬼に金棒だろうと思うのです。
その意味合いで私共は、その熊本のその偉い人それこそいまだかつて、こんな人間に会うたことが無いような人間でない凡人であるということ。富永先生のように信心はなくても道理が分かっておられるほどしに、道理が分かっていない私共であるということ。そこでそれを分からせて頂きながらです、それを本当に真剣に自分のものにしていく、いわば生き方。そういういわば生き方。そういうおかげをひとつ頂いていき、身につけて行く為に、どうでも久富さんが言われるサァーと言う信心。
サァーというその勢いがね足りません所にです、もう本当にそれこそそのうやっぱり川なら川に、飛び込まんならん時もですたいね、もう飛び込めんなからんごたるばってん、やっぱりこうぐずぐずしておる。それで後からバァーっと突っ込まれる。というそのう突っ込まれてですね、川の中に飛び込むというのじゃなくて、こちらが姿勢を作っておいて、サァーと言うて飛び込ませて頂けれる信心を、なんとか工夫したい。こりゃねいろいろやっぱそのう工夫が必要なんです。
今朝から頂きます御理解の中にね、師匠が教えたことを皆返やしてしもうても師匠は喜ばない。師匠から習うたことをよく覚えておって、お師匠さんのおかげでこのように出世致しましたと言やぁ師匠も喜び自分も喜ぶ。信心させて頂いておかげを受けてね、おかげを受けたら神も喜び金光大神も喜び、氏子も喜びじゃというような御理解を頂いた。そこでなら皆さんがですね、合楽でこうに稽古なさっておられる、その稽古の焦点というのは何時もどこに置いておるか。
これだけは分かっておきなさらんといかんですよ。これだけはというものはやっぱりあるんですよ。その事を私またこう御教えを開かせて頂きましたら、天に任せよ地に縋れよということを頂いた。だから天に任せよ地に縋れよというのは、もういよいよどうにも出来ないという時にね、もう任せるより外に無いから。神様に一心にお縋りするという意味合にだけ頂いておったけれど、合楽で皆さんに私は聞いてもらっておることは、この事を皆さんに何時も聞いてもらっている。
天に任せて地に縋るということなんです。天に任せることは神様に任せることなんですよ。地にすがるということは、その縋っておるその間に何をすがるか、神様がいよいよ時期到来、おかげを下さろうとしておる時に、おかげを下さる時に、それを受け止めさせて頂けれる受け物を作らせて下さいと言うて、地には縋るものだと頂きました。今朝の御理解を頂いた後に、市川さん御一家がここに出て見えられましてから、昨日の大祓の時に、奥さんが御神眼に頂いておられる事を、私はちょっと言葉は忘れましたけれど。
まだ早いという意味のことを言葉で頂くんだそうですね。椛目言葉でまだ早いまだ早いと言われるたんびにですね、あぁ慌てなさんなじゃった。慌てなさんな、慌てなさんなと、一言一言のたびにですね、そのうちょっとこのう五葉松なら五葉松のような物が、ひとつひとつがこうやって扇子になっていくところを頂くんです。そのうとにかくお互いが、気が早っておるですから、おかげを頂きたいもう今にも楽になりたいと思うのです。その例を私は今朝からつい最近。
ここの合楽の御造営が出来てこっちに、やっぱり何千万かけてから大広前が出来た北九州の教会が二軒出来た。福岡とあちらの若松の方へ。ところが方や福岡の方は、半ばに亡くなりゃしゃった教会長が。それから若松の方は出来上がってしもうてから、教会長がまだ若いのに亡くなられた。どうした事じゃろうか。ということを私は今朝の御理解に頂きましたのが、神様はまぁだこういうおかげを下さろうとしておるのに、もうそのもうね少しばかりのところで慌てて、いわゆる神様の気感に叶わなかった事を。
まぁ色々今日の朝の御理解に出ております。お互いにそのう慌てなさんなと言われても、心が慌てておる。慌てなさんなと言う時が、地にすがる時なんです。その地にすがる時にです、大地にすら向かわせて頂く時に、んならこの事が成就しますようにじゃなくてから、神様が下さろうとするおかげを頂き止めさせて頂けれるおかげ。これはもう私がここは十人が十人でしょうけれどもです、本当に神様の時節を到来を待って、おかげを受ける人はありません。
どうもそれがやっぱり二つ三つはまだ早か早かと、待ち切らん事であるから神様がお許し下さって、待ち切られんところを私はお詫びさせて頂いとるという例が沢山あります。まぁだまぁだと神様が言うておられる間に、まぁだまぁだ本当の信心の方を頂いたけ、信心の方をもう少し本当のものにしておけという、神様の願いを聞かずに、そういう事をやるからそんな結果になるんだと、いうなことも頂いたんですね。ですから例えば皆さんがここでなら頂いて、これだけはと言うことは。
いわゆる成り行きを大切にこと成り行きを尊べよと、という事でございます。だからこれだけは皆さんのものにしてです、おいてもらいたい。これだけはしようともこれをひとつ話のようにして、話しておられた事」を自分のものにしておけたという様なです。ひとつしっかりしたものに、ひとつして頂いておかなければならんと、私は思うのですけれどもね。唯おかげを頂く為に任せておくのじゃいかん。だからおかげの方が、何時もあってますから、未だでしょうか未だでしょうかと言わにゃならんごとになる。
本当にその天に任せきらなければいけない。天に任せて本当に地に縋らせて頂く信心をです、本気で身に付けさせて頂き。そういう信心を目指させて貰う。私は信心の願いおかげじゃない。そういう信心を願わせて頂くならばです、例えばサァーと言ういわばいよいよの時に、神様がいきり立ってサァーと言いなさる時に、こちらもサァーとそれに答えられる信心が出来ると思います。けれどもおかげをもう受けておるもんでございますから、神様がサァーと言うても聞こえん振りして、サァーち言うちから向こうから言いよる。
だからいっこうそのうシャットしたようなものが出来んのです。そういう例えばサァーという信心させてもろうて、本当にそれを自分のものにならせて頂いたら、例えば教祖様の御国替えの御様子のようにです、それこそヤァーヤ言わんでも、サァーサァー言わんでも、もうその事が有り難く出来ておる。サァーと言わねば出来なかった事がです、もうそれが有り難く出来るようなおかげが受けられる。それにはです熊本の社長さんではないけれども、富永先生ではないけれども。
そういう素晴らしいものを信心によって身に付けて、そしてそれが信心になってくるというようなです、おかげを頂いた時にいわゆる鬼に金棒。死ぬる時もサァーと言わんでもよか。それこそ心やすしと死んで行けれるようなですね、おかげを受けられるんだ。金光様の信心の願いと言うか目指すということは、そういうことだと私は思うのです。その過程においては。だからお互い私を始め、皆さん一同今こそサァーの信心が出来なければならん時ではないでしょうかね。
どうぞ。